株式会社イシフク
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やわらかい石屋

やわらかい石屋のご縁

昭和31年9月

近隣の茶畑が色合いを深くする季節。
静岡市にある石材店、株式会社イシフクに男性が一人訪れる。
「イシフクさんってこちらですよね?」

「いらっしゃいませ。どうぞ、お掛けになってください。」
対応するのは当時の社長である望月松二。ゆっくりと椅子に腰を落ち着けたその男性、

「墓、・・・あの、お墓を建てたいのですが。あの、イシフクさんがいいですよって、知人が。」
「ああ、そうですか。それはありがとうございます。私、イシフクの望月ともうします。」

名刺を渡し、挨拶をする松二。
「あ、お世話になります。私、富永と申します。」
松二は、はっとした。富永という名前。どこかで聞いたことのある名前。

松二はゆっくりと、尋ねてみた。
「富永さんって、あなた、静岡の方かな?」

ゆっくりと「偶然」という歯車が回りだした。

当時イシフクは創業100年を迎える静岡の老舗石材店だ

初代、望月福太郎。二代目が望月松二。三代目威男。そして現社長の秀康は四代目である。
二代目の望月松二18歳のころ。
1923年(大正12年)9月1日 マグニチュード7.9という未曽有の大地震が日本を襲った。
関東大震災である。

静岡も大きな被害を受けた。

18歳にして静岡市北部青年団の団長を務めていた松二は、市内の安西通りから北の青年団員を静岡駅に集めた。

13歳から26歳の石工、左官、とび職、瓦屋、土方を中心に組織されていた当時の青年団員、松二の呼びかけで各々手に道具を持っている。

「今から俺たちで、震災支援に向かう。いいか、怪我だけはするな。」
松二の言葉に、青年団員たちの顔が精悍に引き締まる。

総勢200人の職人を引き連れ

総勢200人の職人を引き連れ、駅の改札で「震災信仰の支援に行く。協力してほしい。」と駅員に申し入れる松二。

駅員は「無賃で乗せることはできない」と答える。しかしながら200人の職人集団を前に、さすがに駅員も恐れを感じる。慌てて駅長に報告にゆく。駅長室から

「駅長の富永だ。」
先ほどの駅員を指し、
「この職員から説明があった通りだ。無料で乗せるわけにはいかない。」

にらみ合う双方。しばしの静寂。たまりかねて口を開いたのは駅長だった。
「分かったら、切符を用意してくれ。」

「・・・・・・。」じっと黙っている松二。
次の瞬間だった。
「お前ら!飛び乗れ!」松井の声が響く。

わっと客車に飛び乗る職人達。

「おいっ!運転手!汽車だしちまえっ!」
不意をつかれ、あっけにとられる駅長。静岡の職人軍団を載せた汽車の車輪が、力強く線路に音を刻んだ。

東京はもちろん、神奈川・千葉・埼玉・静岡・山梨・茨城にまで被害が及んだ未曾有の大災害、関東大震災。被災者340万4898人、死者9万9331人。

松二率いる青年団員は、持てる力、技術を最後まで振り絞った。大活躍であったのは間違いない。その証拠に、帰り道では多くの人々に賞賛、感謝された。もちろん、帰りの運賃は「無料」であった。

そして、静岡駅で最敬礼をして彼らを迎えた一人の駅長の姿があった。「富永である」。
縁とはとても数奇なものである。

それから33年後

イシフクの二代目となった望月松二のもとに訪れた青年に訊いてみる。
「あなたの親父さん、駅の職員をしていなかったかい?」

怪訝そうな表情でその青年は答えた。
「はい、確かに父は静岡駅で駅長をしていましたが・・・。」

「偶然」とは「必然」のうちの一つである。あの時の駅長のお墓を自分が手掛けることになるとは。

松二は表情を和らげ、こう言った。
「私は、あなたの親父さんのことを、よく知っているよ」

代々望月が繋ぐ石材店、イシフクには不思議な「ご縁」の物語があるのだ。